このころの相模湾は藤沢付近まで入り込んでおり、湾内に鎌倉・戸塚・藤沢という3つの支丘が突き出していました。その間には、大船・藤沢・大庭という入江が並んでおり、この丘陵の台地の上に縄文人が住んでいました。各地でこの時代の撚糸文土器や桂台式土器などが発掘されています。

2300年ほど前に大陸から稲作と金属器が伝わり、台地の上にあった住居は山の麓などの、水の得やすい場所に移りました。収穫の蓄えにより力の差がうまれ、各地に集落ができ、やがて邪馬台国などの国が誕生しました。栄区内でも住居跡や稲作をしめす土器がみつかっています。

中国にならって律令政治をめざした大和朝廷は、都を奈良の平城京に置き、中央集権制度がはじまりました。国が土地を所有し、農民が耕作するという「国郡里(郷)の制」が確立しました。相模の国には8つの郡が置かれ、本郷第三地区は、鎌倉郡に属していました。

律令制度の破綻によって地方の政治は乱れ、盗賊がはびこるようになりました。有力な領主達は、土地を贈って中央政府の勢力下にはいり(荘園制度)、土地を守るために、武装した集団が結成されました。本郷第三地区は、「山内荘」の「鎌倉党」という武士団に属していたようです。

足利尊氏によって室町幕府が成立しましたが、やがて武将が争い乱れる戦国時代に突入しました。この地域は、小田原北条氏の支配下にありました。

徳川幕府が倒れ、明治新政府が誕生し、この地域には神奈川府が発足しました。

明治政府による市町村制の施行によって、鎌倉郡の7つの村、笠間村、小菅ケ谷村、公田村、桂村、中之村(中野村)、鍛冶ケ谷村、上之村(上野村)が合併して本郷村となりました。地区の名称の由来であり、地域の各地に「本郷」の名前は残っています。本郷村役場は、本郷石橋付近にありました。

横浜市は明治22年に誕生しましたが、この地域はあいかわらず鎌倉郡に属していました。

横浜市は、何度かの市域拡張が行われ、昭和14年に鎌倉郡の北部を編入して戸塚区が誕生しました。本郷村は、横浜市戸塚区に編入されてもとの7つの地域にわかれ、それぞれ大字から町になりました。現在の、鍛冶ヶ谷町・中野町・上郷町・公田町・桂町・小菅ヶ谷町・笠間町が誕生しました。

戦争への突入により、人々の暮らしは次第に困窮していきました。空襲が激しくなると、この地域でも学童集団疎開が行われ、残った中等学校以上の学生は勤労動員されました。地域近辺には、第一海軍燃料厰がつくられました。戦闘機用やその他の燃料の研究実験、製造がおこなわれ、戦争末期には10代前半の少年を含む約2,000人が働いていました。

終戦によって、第一海軍燃料厰はアメリカの占領軍に接収され、大船PX(Post exchange:売店、駐留軍の物資倉庫)の施設として使用されました。本郷地区の中央に位置していたため、地域開発の大きな障害になっていましたが、住民の返還運動により終戦から22年も経った1967年にようやく全面返還されました。その跡地は、駅、区役所、学校などの公共施設に生まれ変わりました。

高度成長期を迎えて、京浜工業地帯のベッドタウンとして宅地開発が進みました。団地や住宅地が次々と誕生し、1970年に洋光台駅、1973年に港南台駅、本郷台駅が開業しました。そのなかで、新しく「若竹町」と「元大橋」が誕生しました。

急激な人口増加による行政サービスの低下を防ぐために、戸塚区が3分割され、本郷地域と豊田地域の一部を中心に新しく栄区が誕生しました。区の名前は、7,000名を超える応募の中から、地域が栄えるという願い、字の持つ明るいイメージから選ばれたとのことです。
平成8年には「柏陽」が誕生しました。